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Monthly Archives: November 2008

12月12日より東京のアクシスギャラリーで開催される「バーンロムサイ Under The Tree展」のためにクマに飾り付けをしました。この展示会は、タイのチェンマイにあるエイズ孤児の施設、その運営資金をサポートするのためのチャリティーの一環です。

10体のクマに、蚤の市で見つけた100年前のボタンとヴィンテージの麻布を組み合わせ、胸にエンブレムをつけました。


いろんなクマが集まっている様子が、ジャーナリスト川上典季子さんの書くフィガロ・ウェブのコラムに載っています。

有志が飾り付けをしたユニークなクマたちが10,000匹集まるようです。 きっとお気に入りの一匹が見つかると思います。ぜひ立ち寄ってみてください。展示は12月22日まで。

鉄。

今回の帰国で撮った写真を整理していると、たくさんの「鉄」が写っていました。

風雪を経てざらざらした表面、その凹凸からまだらになった色合い。風化しても、ちゃんとその役目を果たしている鉄たち。英語で言う「patina」ですね。隣り合った木のなめらかで優しい歳の取りかたに、鉄のパティーナがより引き立てられている。


ここまでの写真は法隆寺で撮ったもの。

法隆寺は再発見でした。あんな美しいプロポーションで地震にも耐える構造の建築が1400年も前に建てられ、雨風を受けて装飾が落ちた「素」のものが迫力を持って目の前に存在する、その不思議さ。困難な、手のかかる仕事をたくさんの職人が信念を持ってやりとげた結果なのだな、、、と思いを馳せました。

行きにくい場所にあるからか空いていて、修学旅行バスの中学生が通り過ぎると、ゆったりした時間を堪能しました。こんな不便な場所にあるから、いにしえそのままの広い空を体験できたのだ、、、と感謝したり。

でも、まわりの街はほんとうに殺風景です。国道沿いにはパチンコ店、乱雑な看板、さびついた広告ベンチのあるバスターミナル、、、。どうしてこんな素晴らしい遺産のまわりが、ここまで荒れ果ててしまうのだろう。地元の人は法隆寺を観光資源とは思っているけど、周りの印象が良ければ旅人は「リターン」する、という世界の観光地の法則を知らないようです。誰か、教えてあげてください!

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「パティーナ」の話をしていたのでした。どうも、今回の旅行以来、センスのない日本の地方開発と殺風景な観光地について、つい愚痴ってしまう、、、。

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もう一つ見た「鉄」は不思議なバランスの茶釜です。


歴史保存街区のある奈良県橿原市の今井町で、酒造家を見学した時に二階の座敷に置かれていたものです。箱書きの歴代の持ち主に、織田信長と豊臣秀吉の名前があるのだけど、、、。あながち嘘とも思えないこの存在感。

底が広いのは熱を受ける効率が良く、湯が冷めにくいよう口は狭く。浮かび上がった文字は「内」と「火」の組み合わされたものに見えます。この茶釜が炉に掛けられ、しゅんしゅんと音を立てているところを想像してみる。炭のにおいが漂い、ぴりっとした空気に湯気の湿り気がたちこめる室内。

茶の湯の世界はあまりに深そうでなかなか立ち入れないのですが、美しいと思った道具を使ってみたくてその扉を開く、という入り口もあるのかもしれません。

天川村で出会って嬉しかったのは、夜空に広がる天の川と、森と、神社に必ずあったたくさんの巨大な木でした。

川合地区にある天之水分神社のご神体と思われる、直径が2メートルを越えていた杉の巨木。


こういう圧倒的な存在の前に立つと、畏敬の念をいだくと同時に、触れてみたい思いに駆られます。これは神聖さを穢す所作なのかもしれない、、、とびくびくしながらも、手のひらを当てたり背中を寄せたりしてみる。触れると対話が出来るかというと、そういう訳でもないのですが。

そんな瞬間を写真に収めたのだけど、、、巨木さん、怒ってないですよね?

奈良県吉野郡天川町にある天河弁財天という場所に行ったのは、田口ランディの『水の巡礼』というエッセイに触発され、その中にあった写真家の森豊による湿り気が感じられるような森の写真を見て、こんな場所に身を置いてみたい、、、と思ったのがきっかけでした。

2泊して天の川を見上げ、聖域とされる周りの山を歩きました。森には至る所に巨大な木がそそり立ち、水気をたくさん含んだ空気に森全体が包まれている感じ。下草や苔、きのこもたっぷりと水を含んでぷるぷるしていました。澄み切った水の流れに逆らい、群れになって登るマスの腹が、日に照らされてキラキラ光っていました。


なのに。

なぜ、そんな清流をコンクリートでせき止めて、ダムを造らないといけないの?近くに工業地帯があるでもない山深い清流にダムを造り、エメラルド色の水が流れる川床へ向けて「放水時の避難路」としてコンクリートで固められた傾斜路が何本もつくられ、放水の情報をアナウンスするために設置された巨大スピーカーからは1日に2度、ばりばりに割れた音で役場からのお知らせが流れる。

どうして、神聖な雰囲気の漂うあの山に、コンクリートの土台を据え、四角柱を組み合わせた鳥居ともゲートともつかない赤い巨大なモニュメントを建てる必要がある?

視覚的にも触っても異質で無神経な、木を真似たコンクリートの手すりや階段をあの森に持ち込もうと誰が決めたのだろうか?


天河弁財天は静謐な場所だったけれど、そこにたどり着くまでに見た脈絡ない開発に怒りを覚え、すっかり疲れていました。掃き清められた境内を一歩出ると汚れたコンクリートの壁が目に痛く、痩せた植栽と埃っぽい駐車場に囲まれた「天の川温泉」に着いても、湯につかる気も失せるほどぐったりしていたのでした。

アレックス・カーがその著書『犬と鬼』で告発している、日本の景観を破壊した開発の構造、コンクリートで地面を覆うことで成り立つ経済について、わたしはこの天川村で体に刻み込まれるように理解しました。それは、開発を醜いものとしてはっきり映し出すほど、天川の森が美しい水に満ちた場所だったからだと思います。

良く晴れた朝、吉野杉の谷間に清らかなたたずまいの農家がある!と思って近寄ると、家の前は道路拡張工事の最前線でした。


ここは洞川温泉に向かう21号線の峠の入り口で、この道はすでに対向車線になっているし、バスも対向車と問題なくすれ違っているのに、木を倒して道路を拡張することは本当に必要なのだろうか?

水の森に入りそして出て来るまでは、こんな風景にここまでの違和感を持ってはいなかったと思います。

でも、今でははっきりと区別できる。

手入れの行き届いた農家のたたずまいは「森」に近く、日本の文化と美意識から生まれている。けれど、コンクリート壁と排水の穴は機能だけを考えて配置され、文化の洗練からは遠く離れた存在だと思う。造成したての今はある種の清らかさがあるけれど、年月が経つと穴の下は水垂れで汚れ、壁全体が赤茶けたカビのような色になって風景を浸食していく。

帰路のバスの窓から、コンクリート壁がすすけて赤黒くなり吉野杉の山腹を汚している様子をあちこちで見ました。それがどこにでもある風景で、わたしたちがあまりに見慣れていること、それが一番の問題なのだと森に気づかせてもらった帰り道でした。