奈良県吉野郡天川町にある天河弁財天という場所に行ったのは、田口ランディの『水の巡礼』というエッセイに触発され、その中にあった写真家の森豊による湿り気が感じられるような森の写真を見て、こんな場所に身を置いてみたい、、、と思ったのがきっかけでした。
2泊して天の川を見上げ、聖域とされる周りの山を歩きました。森には至る所に巨大な木がそそり立ち、水気をたくさん含んだ空気に森全体が包まれている感じ。下草や苔、きのこもたっぷりと水を含んでぷるぷるしていました。澄み切った水の流れに逆らい、群れになって登るマスの腹が、日に照らされてキラキラ光っていました。
なぜ、そんな清流をコンクリートでせき止めて、ダムを造らないといけないの?近くに工業地帯があるでもない山深い清流にダムを造り、エメラルド色の水が流れる川床へ向けて「放水時の避難路」としてコンクリートで固められた傾斜路が何本もつくられ、放水の情報をアナウンスするために設置された巨大スピーカーからは1日に2度、ばりばりに割れた音で役場からのお知らせが流れる。
どうして、神聖な雰囲気の漂うあの山に、コンクリートの土台を据え、四角柱を組み合わせた鳥居ともゲートともつかない赤い巨大なモニュメントを建てる必要がある?
視覚的にも触っても異質で無神経な、木を真似たコンクリートの手すりや階段をあの森に持ち込もうと誰が決めたのだろうか?
天河弁財天は静謐な場所だったけれど、そこにたどり着くまでに見た脈絡ない開発に怒りを覚え、すっかり疲れていました。掃き清められた境内を一歩出ると汚れたコンクリートの壁が目に痛く、痩せた植栽と埃っぽい駐車場に囲まれた「天の川温泉」に着いても、湯につかる気も失せるほどぐったりしていたのでした。
アレックス・カーがその著書『犬と鬼』で告発している、日本の景観を破壊した開発の構造、コンクリートで地面を覆うことで成り立つ経済について、わたしはこの天川村で体に刻み込まれるように理解しました。それは、開発を醜いものとしてはっきり映し出すほど、天川の森が美しい水に満ちた場所だったからだと思います。
良く晴れた朝、吉野杉の谷間に清らかなたたずまいの農家がある!と思って近寄ると、家の前は道路拡張工事の最前線でした。
ここは洞川温泉に向かう21号線の峠の入り口で、この道はすでに対向車線になっているし、バスも対向車と問題なくすれ違っているのに、木を倒して道路を拡張することは本当に必要なのだろうか?
水の森に入りそして出て来るまでは、こんな風景にここまでの違和感を持ってはいなかったと思います。
でも、今でははっきりと区別できる。
手入れの行き届いた農家のたたずまいは「森」に近く、日本の文化と美意識から生まれている。けれど、コンクリート壁と排水の穴は機能だけを考えて配置され、文化の洗練からは遠く離れた存在だと思う。造成したての今はある種の清らかさがあるけれど、年月が経つと穴の下は水垂れで汚れ、壁全体が赤茶けたカビのような色になって風景を浸食していく。
帰路のバスの窓から、コンクリート壁がすすけて赤黒くなり吉野杉の山腹を汚している様子をあちこちで見ました。それがどこにでもある風景で、わたしたちがあまりに見慣れていること、それが一番の問題なのだと森に気づかせてもらった帰り道でした。