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日々のこと・everyday

なんと、このブログに以前にポストを載せてから2年以上が経っていました!

twitterでつぶやき始めると140文字以上を書くのが次第におっくうになり、そののちFBで写真をたくさん掲載できるようになるとこっちが便利!と乗り換え。まとまった文章を書かなくなるのはわたしの日本人らしさの衰退なので、ここで気持ちを新ため、レポートを再開します。

この印刷物は、2008年の4月(ほぼ9年前!)にも紹介した、もう10年以上配、毎週配達してもらっているRiverfordの有機野菜の箱に入って届く、生産地からのニュースです。

riverford news

執筆者のGuy Watson氏は、今ではずいぶん大きな産業に育った有機野菜デリバリーの草分けです。1993年に Riverford を始め、共労する有機農園を少しずつ増やし、フランスやスペインにも農地を広げて活動を続けています。このごろはBBCのラジオ番組で食の安全について話すほどの有名人なのですが、今もこうやって消費者のためにニュースを書き続けています。

ニュースでは、雪が降って作業できないくらい農地がぬかるんだり、ぜんぜん雨が降らなくて次の季節の水を心配したり、ある種類の野菜が思わぬ大収穫で売りさばくのに困ったり、という現地の出来事がレポートされ、さらにオーガニック野菜を取り巻く社会の変化、まだ続く合成肥料や化学薬品での害虫駆除が大地にどんな影響を地域に与えるか、どんな新技術が有機農園の経営を助けるのか、という社会的なことも伝えられます。

同じくらいの金額を支払うなら、見た目とコストパフォーマンスで商品を選んでいる大手のスーパーよりも、地域の保全を考えながら体にも良い野菜を生産する人たちから直接買い物をしたい。そう思って始めたこのデリバリーは、野菜の味がものすごく良い、という最大のメリットと、意識的な消費で地域を助けるというポイントに付け加え、毎日の消費がわたしたちを取り巻くグローバルな環境と直接つながっていることを思い出させてくれる、大切なメディアなのです。

ニュースレターは RiverfordのHPで読めるアーカイブにもなっているのですが、土だらけの野菜と一緒に届けられる、汚れてよれっとしているこの印刷物(もちろん堆肥OKの有機インク)が一番、現場の雰囲気が伝わって土の近くにいる感触をくれます。

Ooops it was more than 2 years ago when I last posted an article here!

Twitter made me not to write more than 140 letters, then Face Book made me even lazy, as numbers of pictures replaced text or comments.  To prevent me forgetting my mother tongue Japanese, I start to write again!

The image above is newsletters delivered with vegetable box from Riverford – I posted once about their veg in 2008 ( 9 years ago! ).

The author of these news is Guy Watson, who has started this venture of organic veg box in 1993.  This organic veg box delivery has grown enormously since, and we hear his voice on BBC radio 4 sometime – but still he keeps writing what is happening at the farming front to his consumers.

We read about how snow make we soil and affect efficiency of cropping or farmers are worrying next season if we have little rain.  Sometime, we learn how farmers struggle to sell when they have unexpectedly good harvest of some vegetable.  Adding to those everyday matter, Guy tells us about social shift around organic issue and how still huge company dominates chemical farming reality.  It is amazing to know some latest technology, such as GPS improve small farmer’s efficiency.

I decided to use Riverford because I want to pay same amount of money to smaller and ethical farmers rather than the gigantic supermarkets.  The largest pleasure is of course the taste of vegetable – and it became an important media for me to realise our consumption is directly related to our global environment.

You can read Guy’s letter in the archive – but for me, this mud dirty wrinkled paper delivers the best feeling that my thought is sometime near the earth.

スタジオの裏庭にゼラニウムがたくさん咲き、花びらが散ったあとに、先がくるくると丸まったかわいいものが出来ているのを発見。

I found a few little ‘seed dispersal mechanism’ after a lots of pink Geranium flowers have finished.  They are formed by delicate spirals and the ‘heads’ are empty if you give it a close look.

gera00gera01よく見ると、花のつけ根の部分がふくらんで、緑色から褐色に変わっていき、その後に細長く伸びた中心(花柱と呼ぶそうです)が5つに割れる感じにめくれて、この形になるようです。くるんとなった時には、種に見えるのはもうカラで、中の種はどこかに飛んでなくなっている。

After the flower, the bottom part of petals are grown into five green round containers, turn into brown.  Then the central ‘style’ will be split into 5 strips, curled up and throw seeds away.

gera02gera03いくつか根元のふくらみが残っているものを切り取ってデスクの上に置いておいたら、しばらくして「ぱさっ」というかすかな乾いた音がして、硬い種がころころと転がったのです。3センチ足らずの花柱が乾いて反る力で、3メートルも遠くに種を飛ばす。地味な花のゼラニウムが、気付くと日陰で群生しているのは、この飛ばし機能でテリトリーを広げるからだったのですね。

I picked one ‘throwing-in-progress’ head and put it on my desk.  A a few hours later, I heard a tiny pop sound and a seed was thrown more than 3 meters.  Amazing way to expand its territory!

gera04かわいいだけでなく、おそるべし自然。

そういえば、たまたま通りかかったINAXギャラリーの『種子のデザイン-旅するかたち』という展覧会が時間を忘れるほど面白く、カタログを買っていたことを思い出してしばし読みふけりました。

This little but genius mechanism reminds me of an exhibition I saw in Tokyo, which catalogue shows a lot of exotic tree seeds which travel the long distance.

gera05この本に出てくる南国のエキゾチックな植物でなくても、身の回りで普段目にしている花や雑草にもこんな生命力がある。雑草のように茂っているゼラニウムに、なぜか元気づけられるのでした。

Somehow they give me a feeling of vitality.

震災から2年が経ちました。
世界は3.11を忘れたか、、?わたしは、まだ世界は日本を見ていると思います。ある豊かな文化が津波に流された記憶は、技術が発達しても命や財産を守りきれない自然災害への危惧を残し、フクシマが未だにそのままであることに、高度に発達した経済社会のかかえる「病理」のようなものを見ていると思う。

フクシマの現実を目の当たりにした世界の各国では脱原発の動きがはっきりと進んでいるのに、日本のエネルギー政策がまだ原発を走らせつづけようとしている事実と、それを阻止できない賢いはずの国民。「いつか、開発が追いつくはずだった」核廃棄物の処理の目処がいまだに立っていないことを無理やり意識の外に置いて、決断を先送りするのは、そろそろ止めるべきなのではないか。

経済成長していた時期の日本には、巨大なコンクリートの塊に放射性物質を閉じ込めてその中で発電をしよう、石油に頼らないエネルギー源が必要 だ、という論理が普通だったと思います。反対する人は、原爆の被爆地である広島でさえマイノリティーだったと思う。核廃棄物をどうするのか決まっていないけど、ともかくしばらく眠らせておけば、いつか技術が解決するだろう。そんな楽観が経済をもっと成長させ、発電所は増え、製造業も発展して会社はのきなみ大きくなり、わたしたちの父母の世代の多くはその労働をたたえられ、たっぷりとした年金でリッチな老後を暮らしています。

でも、時代はすっかり変わってしまった。核廃棄物の処理方法は見つからず、物を作り続け売り続ける経済行為がどんなに地球の資源を枯渇させているかが明らかになり、今は限りのある資源をどれだけ存続させ、次世代に残せるかが問われる時代になっている。生活の根本を見直す必要があるのではないか?価値観の転換ぐらい大きな、意識のシフトが必要なのでは??そんな時に3.11とフクシマが起こったのです。

no genpatsu昨年7月の最後の金曜日に、わたしは首相官邸前の反原発デモに参加しました。集まっていた人たちは、想像していた「デモを煽動する左翼の活動家」みたいな 人はほんとうに少数派で、多くはオトナで知的でした。深く考えずに今まで放ってきたことが間違っていた、その事に気付いた人たちが反省の気持ちを抱え、 今、この時点でどうにかしなければと思って集まっている、、、そういう印象を強く受けました。

この抗議行動に参加して、日本も変わっていくのかも、、、と希望を持ったのです。こうやって、変えなければと思っている人たちが存在する。職場を少し早く出て、地下鉄口が閉鎖されているからひとつ手前で降り、暑い中汗をかきながら歩いて、官邸にとどくよう声を上げたり無言でじっとプラカードを掲げていたり。

震災の日を翌日にひかえた10日、「金曜日の首相官邸前抗議」を主催している首都圏反原発連合が呼びかけた反原発の集まりに、この毎日新聞の記事では4万人が集まった、となっていますが、日比谷公園屋外音楽堂でのこの写真を見ると規模はもっともっと大きかったと思う。

わたしは遠くに居て、もどかしく見ているだけで何も力にならないので、こうやって静かに抗議する人たちの勇気、間違いに気付いてそれを修正したいという願いを、多くの若い人たちにも知ってもらいたいと思って、ここに書き残します。

デザイン業界に生きていると、ものを作って売り続けることで会社を存続させよう、その会社で働く人、製造の一端を担う下請けの人たちの生活も守りたいと踏ん張っている経営者たちの奮闘に、毎回出会うことになります。そんなクライアントたちの願いと、それとは反対なベクトルを持つ「次世代につなげるための社会」への修正を、どうやっったら並走させられるのか。しかもそこに、自分の職能であるデザインを使うことで何かポジティブな変化を起こす可能性はあるのか?

わたしはまだ、なんの答えも持たずに日々迷走している。それが今の正直な気持ちです。

お気に入りのカフェで、野菜プレート(小)とパンを食べる。カトラリーはDavid Mellorの’Café’シリーズ。でもこのカフェ、近ごろとっても混んでいて、並ばないと座れないこともあるのです。なので、場所はひ、み、つ!

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My favourite Veg Plate ( small ) with bread at my favourite cafe in central London.  It is getting really busy these days and I have to queue up to sit down sometime.

エリザベス女王の戴冠60年記念のお祝いで、街中にユニオンジャックがひるがえっています。ショップのディスプレイにも国旗がはたはたと。ちょっと食傷気味ではありますが、中にはセンス良い飾り付けもあって、そういうのを見つけると嬉しい。赤、青、白の三色の紙でブーケを作って飾っただけなのだけど、古い手押し車との組み合わせが素敵で、なぜかイギリスぽい。

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Golden Jubilee decoration is found everywhere in town.  A little sick of seeing all of those flags fluttering… but some of the shop windows make me smile.  This one is subtle and nice – just three coloured paper flower, but choice of what they are on is rustic and nice.

年の始めに「今年はもう少しアップします」と記したのに、ブログの更新は2月以上の間隔が空いてしまいました、、。見たもの、行った場所から考えたことがたくさんあるのに、どこから手をつけたらいいの?という感じなので、師走になった今、まずは今年の「発見」から。

一つ前のポストで触感について書きましたが、 触覚とあわせて最近とても興味があるのが「嗅覚」です。デザイナーとして「視覚の快適さ」をいつも意識していますが、嗅覚は忘れられがちだなぁ、とふと思い、ではもしも「匂いのランドスケープ」についてもっと意識したら世界はどう見えるかな?と思った。そんな時に手にとって、面白い世界の見方(かぎ方?)を教えられたのが、この本です。

『調香師の手帖(ノオト)』-香りの世界をさぐる-
中村祥二著・朝日文庫 2008年出版

資生堂で長年香りについて研究をし、香水を調香する専門家としての著者が「香りやにおいをめぐる新しい心の文化を模索しようという人たちのために、何らかの意味を持てば」という意図で書き下ろされた随筆です。自身の体験からつむがれた言葉で匂いについて説明したい、とあとがきで語られているように、読みすすむと追体験をしているような錯覚にかられ脳内に匂いが立ちこめる。それがわたしの楽しい読書体験でした。

そして、この本をガイドとして少し実体験をしてみているところです。

ひとつは全く未知の世界だった香水に手を出し始めたこと。
文中で触れられていたある香水の「単一のウッディー・ノートを特徴にした上品で優雅な香り」というものをかいでみたく、そして香水は「身にまとって」みないとその効果を感じられない、ということばに納得し購入。あまりにもビギナーで経験が浅く、他のものとの比較がまったくできないこともあり、感想は「うーん?」というところ。西洋人だと、自分の体が発する匂いと混ざっていわくいいがたい香りになるのかなぁ、わたしは香水に負けている?という気がするのです。もしかすると、香水は自分が楽しむというよりも、同席する他の人たちに向けたメッセージなのかも?と思ったり。

もうひとつは、近年たのしんでいたお香の世界にもう少しだけ歩を進めてみたこと。
お香は同じものを使い続けるよりも、違うものをあいだに使うと鼻が覚醒される、という言葉にふむふむとうなずき、インテリアの一部のように使っている松栄堂の「堀川」のルーティーンに「天平」を足してみました。これはとても興味深い効果で、時に違う匂いをかぐと、慣れ親しんでいると思っていた匂いの新しい要素のようなものに気付いたり、残り香を調整するため使う量を変えてみたりと、自分にとってもっとも心地よい匂いについて、考えさせてくれます。

さらに香木そのものをかいで(専門的には「聞いて」?)みたくなり、でも炭を熾して仕立てる本格的な聞香の手間はおっくうなので、小さなヒーターで暖める携帯式の香炉を試してみました。白檀と沈香の小さなかけらそのものから、すぅっと立ちのぼる香り。これは、驚きです。自然のちょっとした偶然の作り出す物質が、暖められるだけでこんなに強い匂いを放ち、それを古代の人が見つけて大切に使ってきたこと、、、。悠久の時間に思いを馳せるきっかけをくれる香り。つい、他の普通の木はどんな香りを放っているのかな?と手に取るすべての木材をくんくんしてしまうような。

鼻をもっと鍛えたら、自分の周りの感覚地図はかなり違ったものになってくるなぁ、という、不思議な予感をくれた本でした。新しい感覚地図と、毎日のデザインの仕事がどう重なるのか?については、まだまったく予測不可能なのですが。

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イギリスのノーフォーク州に住む友人がアルパカを飼い始めたのです。行って、触ってきました。

やわらかい、、、。夏の終わりに一番ふわふわの毛を刈ったところなので、長い毛は頭と足元少ししか残っていないのだけど、ふわふわというよりは、ソフトなベルベットをそうっと触る感じ。毛足は短いけれど、毛の生えている皮膚も柔らかいので手触りがふかふかとあたたかく、、、今まで味わった事のない感触でした。

アルパカはとてもフレンドリーな動物です。彼らの放牧されている草地に入って行くと、こちらを観察しながらゆっくり歩いて近づいて来る。人間を怖がっていないようで、興味深そうにくんくんと臭いをかいだりして周りをうろうろする。なのに、触られるのはあまり好きではないようで、ちょっと首をさわったらすーっと離れて行ってしまったのでした。腕をまわしてハグしたかったなぁ。

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触感というのは、いろいろな想像力をかきたててくれるものなのだ、、、とアルパカに触れて改めて気づきました。

わたしには大好きで触りたくなるものがいくつかあって、、、そのどれも、生きているものの一部なのです。日常的に触れられる距離にあるものは、その持ち主(というか、所在場所?)を大切に守ろうと思うし、わざわざ出かけて行って触れるものは、遠くにあってもその存在がわたしを元気にしてくれ、旅に出る動機をくれる。そうっと触れるわたしの指先がちゃんとなめらかでその対象を傷つけないよう、指の手入れしないといけないし、がさつな触り方にならないよう、まずは呼吸をととのえて、、、などと思ったりする。

「触感」がわたしたちに与えてくれる喜びについて、その楽しみをどうデザインに活かすかについて、もっと考えてみてもいいのかも、と思ったアルパカとの出会いでした。

震災から2か月後の5月中旬、わたしはまた日本に行きました。海外ではあまり報道されていない、避難所での生活での様子、急ピッチで進む仮設住宅の計画、もっと時間がかかるであろう復興の各地でのプランや団体の動きを聞いたり見たりしました。

そして、実際に現地に行った友人の話やニュースでの報道を見て強く感じたのは、被災地での「心のケア」が、復興のいろいろな側面で今から必要になる、ということです。

家族や友人を失って呆然となった被災者たちも、すぐに将来のことを決めて前に進んでいかなければいけなくなる。目の前で流されていく人たちを見て、助けられなかったと自分を責めていたたくさんの人たちも、気を取り直して今からの生活を立て直す時期になっている。

日本には、プロのカウンセラーに自分の体験や気持ちを話し、専門家の知識を使って「心の復活」を助けてもらう、ということがあまり一般的ではないと思うのですが、今こそ、たくさんの「心の専門家」が必要とされている時だと強く思いました。

***

カウンセラーがどんなふうに「効く」のか、わたしの例を少し話してみたいと思います。

この写真はロンドン北西の郊外、Stanmoreという場所にある小さな森です。この森を幾度もくぐり抜けてカウンセラーの元に通ったことが、わたしの今の生活を支えています。6年半前の2004年の秋に初めてカウンセラーに会いました。20年一緒に暮らした元夫との関係がうまくいかなくなり、生活と仕事のパートナーシップの両方を同時に解消するという場面に直面して、完全にうろたえていた時に紹介された「職業の関係する離婚問題」の専門家でした。そして、自宅の一室で、紅茶をいただきながら話をするカウンセリングが始まりました。

いつも2人で行動した日々から急に一人になり、何から何まで自分で決定して打ち合わせにも旅行にも独りで行くようになった時、はじめて、自分がパートナーとの共存に慣れ、依存し、その関係の中で生きていたことに気づきました。最初の頃はたびたび頭の中が真っ白になり、何をどう決定するべきか、今日まず何をしたらいいのかすら、彼女に助けてもらわないと思いつきもしなかったことを憶えています。

最初の1年は毎週通って2時間ずつの「応急措置」をほどこしてもらいました。相談することは、山ほどあったのです。

まずは一度、どこかに逃げるべき?それとも現場に踏ん張ってがんばるべき?
将来のことが不安で眠れない時はどうしたらいい?
運転中に急に悲しくなって、注意散漫で事故を起こしたらと怖いのだけど、、?
ビジネス相手に「パートナー解消」について感情的にならずに説明する方法は?
独りでスタジオを続ける自信はどうやったら生まれる?
そもそも、どこでどう間違えて結婚を維持出来なかったのだろう?
こんな「失敗」を抱えたままで、社会はわたしを受け入れてくれるのかな?

少し落ち着いてからは2週間に一度からひと月に一度、その都度1時間半会って、今感じていること、何かをきっかけに起こった感情の変化など、生活と仕事のすべてに関わってくるいろいろな感情と向き合いました。

孫を期待していた親は、今どんな気持ちだろう?
ひとりぼっち感がなかなか去らないけれど、どうしたら楽になる?
見ると悲しくなる、山のように残った二人の写真はどうするべき?
知らずに元夫のことを聞く人に、相手を動揺させないで離婚のことを話すには?
急になれなれしくなった隣人に「あなたは必要ない」と分からせる方法は?
自分の性格を変えないと「次の出会い」なんてないのでは?

時間の経過とともに変わっていく心の動きを受け止め、前向きに将来のことを考えるやり方を、たくさんの専門知識を動員してゆっくりとあせらず手ほどきしてくれたこのカウンセラーの助けがなければ、スタジオをもう一度立ち上げスタッフに恵まれ、今のパートナーに出会って、、、という今の生活を手に入れていなかったかもしれない、と本気で思います。仕事を諦めていたかもしれないし、逆に仕事に没頭して「生きること」を忘れていたかもしれない。

わたしが学習したのは「バランスを考えた生き方」そのものだったと思うのです。

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離婚という、半分は自分に責任のある別れでさえ、毎日の生活をうまく回せないほどの「感情の揺れ」を体験します。地震と津波で突然、家族や親しい人を失ったたくさんの人たちは今、想像する以上に大きな心の傷を負って毎日を暮らしていると思います。家族や友人を助けられなかった、という自責にかられている人もたくさんいます。しかも、その後の被災地や避難先での生活では、助けられているという遠慮から、自分の心の中の葛藤を表に出さずに抱えこんでいると思うのです。

もちろん、物資が被災地に届くことが何よりも優先されるべきだし、今は街の復興が計画されている時期だと思います。同時に、このたくさんの、ほんとうにたくさんの人たちの心のケアについて、誰かがちゃんと考えて行動を起こしているのか?何万人、もしくは何十万の人たちと会って、それぞれの話を聞き、感じる苦しみはどんなしくみで心にわき起こるのかを説明し、どんなことを試したらその喪失感を乗り越えられるのか、という専門的なアドバイスができる人たちは、日本にどれくらい存在するのか?

心のサポートなしには、被災地が主導するべき復興が外部からの押し付けになってしまうのではないか? 今現場で、悲しみを乗り越えてばりばりと復興のために働いている人たちが、いつまでも心のケアなしに働き続けることを期待するのは間違っているのではないか?

どなたか、心のケアを活動の中心にしている団体をご存知でしたら、ぜひ教えてください。

赤十字や企業、官公庁を通じた寄付金がかなりの額集まっている今、ロンドンで秋に企画しているチャリティー・オークションでの義援金を、カウンセリングの専門家集団や養成団体に直接送る事を考えはじめています。実務の出来るカウンセラーが足りないなら、学科やコース、ワークショップなどを通して専門家を養成する必要があるのではないか?そのための資金が、税金の使い道のひとつにまだ数えられていないなら、どこかから捻出しなければいけない。

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昨年の春ごろ、わたし自身はやっと「カウンセラーと会わなくても、やっていけるかも」と思いはじめ、写真の森を「復活の森」と名付けました。それでも、相談することはたくさん残っていることにも思い当たり、日々を人間らしく生きる道案内として、今でもひと月に1度は通っています。この森を通るたびに車の窓を全開にして深呼吸をする。どこか、心の隅に無理を強いていなかったか、考えながら走ります。

今から、日本にはたくさんの「復活の森」が必要になってくると、切実に思います。被災者の心のケアが一段落する頃(どれくらいかかるのか、わからないけれど、、)に、現場で育ったカウンセラーが全国に散って専門知識を使える場ができて、多くの人がバランスを考えた生き方について学べたら、、、と思うのです。

一週間前の日曜日、震災にあった日本を後にしてわたしはロンドンに戻りました。8日間という短い帰国の途中で出会うことになったこの地震と、その後に次々と明らかになる東北地方の被害を目のあたりにして、この事態にわたしは何が出来るのか、デザイナーという職能がこんな時にどうやって役に立つのか、、、それを考え続けています。

***

11日金曜日、わたしは東京のホテルの一室にいました。10階から見下ろしていたビル街で不気味な「びし!」という音がして、はっとした瞬間に視界がわずかに斜めにスライドするような感覚があり、その後に初めて経験するはげしい横揺れ。天井からワイヤーで吊るされた照明器具が大きくスイングする様子を直視できず、低くなって机の下に向かいながら、水の入ったグラスをテーブルから床に置き、湯をわかしていたポットの電源を抜く、、、。

幸いにも、耐震構造のおかげか部屋では何も床に落下せず、壁にヒビも入らず、ホテルの人が見回りに来てくれてひと心地ついたのが、3つめの余震が去った約10分後でした。余震はその後も続き、かなり大きな揺れも数度ありました。携帯電話や普通回線のネットワークは繋がらず、インターネットは?とPCを立ち上げ、夕刻に会うはずだった友人や家族にメールを送り、イギリスの朝を待ってロンドンに住むパートナーにスカイプ経由で電話をしたのが午後4時半ぐらい。その頃には、震源地や揺れの情報、津波が起こったことなどがネットのニュースに乗ってくるようになりました。

暗くなり始めたころ「そうだテレビがある」とやっと気づいてスイッチを入れると、震源に近い東北から送られた衝撃的な映像が次から次へと流れはじめた、、、。

そこからは、他の地域にいるたくさんの人と同様だったと思います。はらはらオロオロしながら、救助で一人でも多く助かることを祈ってテレビの画面を眺める。そして、職場や出先から帰宅のすべがない友人たちに地下鉄やバス、JRからのニュースを、帰宅難民になっている人たちに食べ物や暖房のある避難所の場所をツィッターで流しました。

原子力発電所の津波による被害も早くから伝えられ「電力の供給が減るおそれがあるので、大規模停電を避けるために必要のない電気製品を切りましょう。」とニュースで言っているのに、ホテルから見えるオフィスでは人がひとりも居ない部屋に煌煌と照明がついている。ビルの会社ロゴや広告塔も電力を使い続けている。街路にあるらしい東京都のスピーカーからは一度だけ、落下ガラスの危険があるから屋内に居るように、というアナウンスが流れたけれど、あれを使って節電を今すぐ呼びかけられないの?とやきもきして外を眺めました。

翌日土曜日、友人たちに助けられながら、唯一動いていた京成線の印旛日本医大前経由で6時間かけて成田空港に着き、さらに6時間後の午後8時に翌朝への時間変更が告知される。空港に着いた時に、そのフライトはとっくに飛んでしまったと思ってまず成田のホテルを予約したのでわたしは寝る場所があったけれど、一緒に待ったたくさんの人たちは空室がなく、カウンターで寝袋と毛布を受け取っていました。

この地震後の短い滞在でわたしが目の当たりにしたのは、モラルが高く我慢強い人々が一致団結して交通パニックを回避した東京、帰宅せずに夜通し宿泊客の世話をしたホテルの従業員たち、夜通しインフラを点検補修して市民の交通を取り戻そうとしたたくさんの交通関係者、エレベーターの動かない駅の階段でスーツケースを運んでくれた若者、家族の安否も確認できないままに、日本を発とうとするわたしを助けに来てくれた友人、電池の売り切れたコンビニエンスストアで携帯電話の充電のために延長コードを差し出していた店員、飛行機を飛ばすために長時間かけても空港にたどり着いた客室乗務員たち、彼らのせいではないのに、空港に泊まる事になった乗客に深々と頭を下げた航空会社の人たち、、、。

たくさんの心優しい人たちが引き続き支えていくのだから、日本は大丈夫だ。そう信じることのできた2日間でした。 わたしは自分の拠点に戻って、そこから出来ることを探そう、と。

***

地震から10日経った昨日、NHKの震災番組をインターネットのUstreamで食い入るように観ました。
http://www.ustream.tv/channel/nhk-gtv

こちらの人々が懸念している原子力発電所が現在直面している状況の解説や現場で働く人たちの努力を聞くと、これならどうにかなる、という希望を抱くことができたのは救いでした。そして、番組の後半に報道された被災地の様子は、そんな過酷な状況でどうやってそこまで健気に、、、というものでした。多くの人が、自分も津波に流されかけて九死に一生を得たのに、助けられなかった人たちの苦しみを思って自分を責めている。たくさんの人たちが、そんな後悔と共に生きて生活を再生させていくのだと思うと、何が、どんな喜びが、その感情を超えて幸せをもたらすのだろう?と考え込んでしまいます。

現地にいないわたしが、デザイナーという少し偏った職能を持つわたしたちが、持っているものを使って出来ることは何なのか?

まず一つ目は、世界のたくさんの人たちが、日本のがんばりを見つめて応援している、という事実を被災地の人たちと日本のみんなに伝えること。 そして、やはりこのグローバルなネットワークを使って出来るサポートを、始めることなのだと思います。

下の写真は、チベットのお寺からの写真です。このお寺では、震災から7日目に「千灯明」という法要が行われ、津波の犠牲者の魂を癒すための祈りが捧げられたとのことです。その時のメッセージが、風の旅行社のチベット特派員から寄せられています。この法要は49日まで毎週捧げられるとのこと。わたしもこのお寺に倣い、毎週木曜日に祈りを捧げようと思います。

「犠牲者の方がたの冥福を心より祈ります。もしも聞き届けられるなら、助けられなかったと後悔している家族や友人に『あなたのせいではないから、わたしの分もしっかり生きて』というメッセージを、どうか送ってくださいますよう」

I was in Tokyo when the earthquake struck Japan and came back to London two days later.   Since then I have been thinking what can I do for that devastating situations.

***

2:45pm, Friday 11 March, I was in a hotel room in central Tokyo.  The view of office buildings from 10th floor window had slid slightly, togehter with sharp cracking noise, then the shake which I have never experienced before.  A lamp hang from ceiling with wire swung badly, I could not see it properly.  I lowered myself, picked up a glass of water and placed on floor, then unplug an electrical kettle I was making a hot water.

The building was amazing.  It swung many times front to back, but nothing was fallen from table or desk, neither in the bathroom.  No cracks were found in the room.  I heard a crashing glass sound in the corridor from a distance.  About 10 minutes and three aftershocks later, a hotel announce told us to stay in the room, then a hotel woman visited my room with first aid box, asked if I was safe.  I felt better knowing that they take care of me.  There were many aftershocks within 1.5 hours time – more than dozen, I think.  Telephone line and mobile phone network were down almost immediately, so I used internet, sending message to my family and skype to my partner in London.

When the atmosphere was getting dark, I realised that there was a TV in the room, switched on and – from then my situation was very similar to many other people in Japan – started to watch shocking images and devastating clips of Tsunami swiped town after town, just hoping as many as possible to be rescued.

Friends in Tokyo started to have difficulty getting home after tube and overrail network suspended for desperate safety checks. I started to receive information of resting places for those commuting refugees, who might walk for long hours in cold weather, then forwarded those information on twitter, in case anyone is benefitted.

The damage on nuclear power plant by Tsunami was reported from the beginning, the electrical company had been asking people to switch off unnecessary light and electrical equipment.  But what I saw in front of my window were a lot of empty offices still brightly lid up together with company sign on top of buildings.  I was wondering any way to use public speakers stood on street, which once gave unhelpful information of seismic scale of the earthquake – 5+.

Next morning, some part of the Japan Rail trains are back for operation, but no express train to Narita airport, as a large area distructed in Chiba prefecture.  My flight was noon. Several friends of mine helped me to check up possible rouite to get to airport, then one found a long round trip to via private rail service to approach Narita from north-western direction.  From the hotel to the airport took me 6 hours, but my flight had not departed yet.  After another 6 hours of waiting for new departure time in front of the check-in counter, on a pile of sleeping bag from a night before, the new schedule was shown for the next morning. I had booked hotel near by already, but many people in the queue received a sleeping bag and a blanket.

What I saw in those two days after the quake were; people behaved morally and avoided the real panic in that concentrated traffic of Tokyo. Hotelmen and hotelwomen who did not go home, but took care their customers overnight.  A lots of rail and road maintenance staffs, who checked safety of transport network on foot.  A young man who carried my suitcase down the stairs in a station where no lift was working.  A friend of mine who has family in stricken area waiting for telephone call, yet came to help me.  A shop keeper who offered an extension line for a mobile phone charge when the battery shelves were empty.  A lots of flight attendances took long way around and reached airport to make those flight possible.

Yes, with those kindhearted people, Japan will be coping this tragedy all right – this is what I believe since those two days.  ‘I have to come back to where I am based and seek what I can do from here’.

***

Last Sunday afternoon, 9pm of Japanese time, I watched via Ustream a TV program to give a thorough report from stricken areas, include the Fukushima nuclear power plants, which has been focused by Western broadcast. The report made me trust those people who are continuously workin, as well as sign of goverment’s openness towards information.

Moreover, the situation of refugee shelters and hospitals in isolated area struck me a lot.  A lots of people, who also had to fight against fallen building and Tsunami water, are in deep remorse that they couldn’t help others, often their loved ones.  How can they come over their deep sorrow of regret – what kind of joy could be brought to them, not always think about their lost?

What can we do to this situation from distance?  How our unique profession as designers can be applied to make a difference?

First of all, we have to deliver message from all over the world, this fact that our thoughts are with them and willing to support.  The tool for this might be the network we have, this global exchange of stories and images.   I wish to deliver warm, creative support to the people in refugee shelters – as soon as possible.

The picture attached is from a temple in Tibet, where a ‘1000 candles prayer’ was given on the seventh day from the quake.  They are sending message to Japan, and will continue their prayer every 7 days until 47th day.  I would follow their way and pray every Thursday for victims – ‘wish your soul can rest in peace, if possible please send your loved ones a message that it was not their fault, they have to live their own life strongly.’